春昼/鏡花

「いや、いや、偶像でなくってどうします。御姿を拝まないで、何を私たちが信ずるんです。貴下、偶像とおっしゃるから不可ん。
 名がありましょう、一体ごとに。
 釈迦、文殊、普賢、勢至、観音、皆、名があるではありませんか。」
「唯、人と言えば他人です、何でもない。これに名がつきましょう。名がつきますと、父となります。母となり、兄となり、姉となります。そこで、その人たちを、唯、人にして扱いますか。
 偶像も同一です。唯偶像なら何でもない、この御堂のは観世音です、信仰をするんでしょう。
 じゃ、偶像は、木、金、乃至、土。それを金銀、珠玉で飾り、色彩を装ったものに過ぎないと言うんですか。人間だって、皮、血、肉、五臓、六腑、そんなもので束ねあげて、これに衣ものを着せるんです。第一貴下、美人だって、たかがそれまでのもんだ。
 しかし、人には霊魂がある、偶像にはそれがない、と言うかも知れん。その、貴下、その貴下、霊魂が何だか分からないから、迷いもする、悟りもする、危ぶみもする、安心もする、拝みもする、信心もするんですもの。
 的がなくって弓の修行が出来ますか。軽業、手品だって学ばねばならんのです。
 偶像は要らないと言う人に、そんなら、恋人は唯だ慕う、愛する、こがるるだけで、一緒にならんでも可いのか、姿を見んでも可いのか。姿を見たばかりで、口を利かずとも、口を利いたばかりで、手に縋らずとも、手に縋っただけで、寝ないでも、可いのか、と聞いて御覧なさい。
 せめて夢にでも、その人に逢いたいのが実情です。
 そら、幻にでも神仏を見たいでしょう。
 釈迦、文殊、普賢、勢至、観音、御姿はありがたい訳ではありませんか。」